こんにちは。
ニラカナ堂です。
沖縄に住んで3つのエピソードがあり、
ぼくは永住を決めたという話を前回しました。
今日は前回の「エピソード1」につづき、
「エピソード2」について語ろうと思います。
今回は沖縄の言葉・「ちむぐるさー」についてです。
これは、意訳すると「かわいそう」ですが、
直訳すると「肝が痛い」になります。
「ちむぐりさん」とも言われますが、
要は、
他人へ向けての「かわいそう」が、
そのまま「自分自身の肝が痛い」ということになります。
これはぼくの小説「満天の星」でも紹介させていただいたのですが、
野宿生活をしていたとき、
毎晩、ある食堂に通っていました。
「あなた、最近よくこの食堂に来るけれども、見ない顔だね。
どこから通ってきているの?」
と食堂のお母さんに訊ねられ、
どこそこで野宿生活をしています、と答えました。
すると、
食堂のお母さんは目に涙をいっぱいためて、
「それは難儀だったねー」
と言ってくれました。
それだけにとどまらず、
「食堂の座敷に布団を持ってきてあげるから、ここで寝泊まりしなさい。
食堂の鍵は預けるから、好きなようにしていいよ」
とまで言ってくれました。
「野宿生活をしている」ということはぼくにとって「ネタ」みたいなもので、
そこに不自由さを感じていたわけではないのですが、
食堂のお母さんにとって見も知らぬ青年の野宿生活は、
「肝が痛い」(かわいそう)な出来事のように映ったようです。
最近通っているだけの見も知らぬ内地からの青年に、
そこまでするお母さんの心にぼくは胸打たれました。
「かわいそう」にもレベルがあると思います。
自分とは関係ないけれど、かわいそうだね、
そんな使い方をする人が多いのではないでしょうか?
しかし、
「ちむぐるさー」の心は、人の痛みは我が痛みなのです。
「同苦」しているのです。
言葉は文化だと思います。
沖縄には、こうした他者と自分との心の距離が近い。
いや、もうほとんど混然一体となっているのです。
ぼくは野宿している理由を伝えて、
食堂をねぐらにすることを固辞しましたが、
すると、2食分の弁当を詰め、渡してくれました。
このことで、
ぼくはまた、「沖縄すごいぜ!」となり、
沖縄永住のきっかけになっています。
こうした沖縄の文化に触れ、
ぼくは当初1ヶ月の予定だった沖縄滞在を20年すごすことになっています。
残念なことに、
沖縄の人は、その「すごさ」の自覚がない。
それが「あたりまえ」になっているためです。
その「あたりまえ」は、
「あたりまえ」ではありません。
ブランディングをしていくうえでも、
これは重要なことです。
他の文化を知ることで、
己を知るということもあることを忘れないでください。
沖縄の人を知るうえで、参考になる一書です。
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