世界的に猛威を振るっている新型コロナウィルス。
経済の停滞によってさまざまな危機がささやかれています。
しかし、
「100年に1度」と言われるこの危機も、
沖縄の歴史を繙けば、
その打開策が見えてくるように思います。
日本では唯一「地上戦」を経験した沖縄は、
その戦争で島民の4人に1人が亡くなるという大惨事を経験しています。
経済よりも何よりも、
自身の、そして愛する人の「命」が奪われ、
戦後も長い間アメリカ統治下で「基本的人権」すら守られてこなかった沖縄。
観光ブームが起きる前の沖縄は、
「悲惨の島」
と呼ばれていました。
その時代、沖縄の人々は何をして生きてきたのでしょうか。
まず有名なものが、
「カンカラ三線」の成り立ち。
捕虜とされた沖縄の人々は、
大好きな三線も戦争で失ってしまいました。
しかし、
そこで生まれたのが、
米軍が配給する食糧の空き缶で胴を、
ベッドの梁から竿をつくった、カンカラ三線でした。
足りないことを嘆くだけではなく、
いまある状況をいかに楽しむことができるか。
そんな沖縄の知恵から生まれたのがカンカラ三線です。
カンカラ三線はのちに、
子どもや旅行者が気軽に手に入れることのできるものとして
普及していきました。
琉球ガラスの歴史もまた、
この「足りない」時期を生き抜いた沖縄の伝統工芸です。
琉球ガラスの歴史自体は、
明治後期からあると言われ歴史は古いのですが、
いまあるスタイルになったのは、
戦後と言われています。
アメリカ軍が戦勝国として沖縄の土産物に
琉球ガラスを好んで持ち帰ったと言われています。
敗戦から立ち上がった当時、
ガラス工房は設備も整わず、
ガラスをじゅうぶんに焚くこともできませんでした。
そのため、ガラスに泡が入ってしまうのです。
それは、
世界基準で言えば、難のある製品でした。
というのも、
クリアなガラスに泡が入るということは常識では、
「あってはならないこと」だったからです。
しかし、
「沖縄の逞しさ」がここでも光っています。
「泡があるのが琉球ガラスの特徴です」と言いきりました。
やがてその「泡ガラス」は、
現代の名工・稲嶺盛吉などのガラス作家によって、
イタリアやモナコの美術展で受賞されるまで昇華しました。
「世界の常識」を破ったのです。
「足らない」を「足りる」にかえる<沖縄の知恵>から学ぶことは
たくさんありそうです。
その「足りない」、「足りる」に変えてみませんか?
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