前回のブログで、
言葉は文化だと述べました。
沖縄の思想のひとつに、
ニライカナイという言葉があります。
この「ニラカナ堂」の名前の由来にもなっています。
その意味は、
簡単に言えば「天国」と解釈できるでしょうか?
ただそれは単なる「天国」ではなく、
「いのちが生まれ、いのちが還るところ」と言われています。
そこには神さまだけでなく、
異界の者たちがいるとされています。
あるとき、
割烹の料理長がぼくにこう言いました。
「内地の神様は天の上。
うちなーの神様は海のむこう。
沖縄では神様と人間は横並び。平等さ―。
であるならば、人間同士誰が上とか下とかないわけさー」
「ちむぐるさー」に次いで衝撃を受けた言葉です。
ちむぐるさーを紹介したときに、
自他が混然一体となっていて区別がつきにくいと語りました。
同じように、
生きている者と死んでいる者の区別もなく、
人間と神様の区別もない。
そこから、
人間同士、皆一緒じゃないか、という思想です。
競争社会で生きてきた東京出身のぼくには衝撃的な言葉でした。
競争社会と言っても、
内容は、
決められたレール(価値観)の上を爪先立って走っているという感じでしょうか。
そんな状態では周囲の風景を眺める余裕さえありません。
沖縄に住んで感じていることですが、
沖縄にはそういうレールがありません。
あるとすれば、
広場があるだけです。
そこで、
砂山を作って遊ぶのもいいし、
相撲を取ってもいいし、
地面でひとり画を描いてもいいのです。
画一的な価値観は役に立ちません。
自他彼此の区別のない世界は、
裏を返せば「多様性を認める」ということになると思います。
その一つの表れが、
「チャンプルー文化」でしょう。
そこから「タコライス」が生まれ、
「ポーク玉子おにぎり」の普及があったわけです。
いまの時代の閉塞感を破る生き方が
沖縄にはあると思います。
沖縄が本土復帰をする際、
岡本太郎が、
「沖縄が日本に復帰するのではない。
日本が沖縄に復帰するのだ」
と言ったことは有名な話です。
沖縄に20年住んできて、
内地の文化を俯瞰することが出来るようになりました。
逆説的ですが、
何が必要で、何が必要ではないか、
区別をつけることが出来るようになりました。
それは、
ブランディングを行なうライターとしての活動に
非常に役に立っています。
レビューより
『沖縄文化論』は、岡本太郎の数ある文章の中でも、最も凛とした気品を感じさせる文章である。述べられている内容の深遠さもさることながら、文章の弾けるような美しさは、彼の著書の中でも、ずば抜けたものである。本書において岡本が主張している言説として、首里城や琉球王に関する文化財などの「モノ」には実在感がなく感激しなかったが、 木と石以外のなにもない「大御嶽」には実在感があり感激したという、両者のコントラストをこそが読み取られるべきである。岡本はその実在感が何であるのかを確認しようとして、わずか数10㎡の木と石しかない空間の写真を、1959年の訪問時には5カット撮影し、1966年の再訪時には16カットも撮影している。
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